忍者ブログ
低レベルな妄想と変な資料だらけ。 苦手な方注意。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


結構長い。

シチリア王国。イタリア語でRegno di Sicilia。
中世から近世にかけて、シチリア島やイタリア半島南部を支配した王国。
現在その領域はほぼイタリア共和国領となってるっぽい。
700年ぐらいの歴史を持つ。 (1071~1759ぐらい)
1282年にシチリアで起こったシチリアの晩禱(住民暴動+フランス人虐殺事件)で
シチリアからシチリア王は逃げ、アラゴン王が即位。
シチリア島の領土と半島側のナポリ王国に分裂。
分裂状態の2国に「カルタベッロッタの和平」 (en) が成立。
シチリア島側はトリナクリア王国を称するようになった。
フェデリーコ2世はローマ教皇やナポリ王国によるシチリア併合の企てを阻止した。

で、ここからいろいろあってスペインの支配に置かれたシチリア島。
スペイン・ハプスブルク家が断絶した後、
ブルボン家の人が即位するもスペイン継承戦争開戦。
1713年のユトレヒト条約でシチリア島はサヴォイア公とやらの手に渡り
サヴォイア家が即位を得たがしかし、
1720年にはシチリア島とサルデーニャ島を交換、
オーストリア・ハプスブルク家のカール6世が獲得した。
ナポリとシチリアは同じ支配者を持った。

そしてポーランド継承戦争。
この戦争によりカルロって人がナポリ王、兼、シチリア王になる。
カルロは1759年にスペイン王カルロス3世として即位するとき、
三男フェルディナンドにナポリとシチリアの王位を譲る
フェルディナンドは一時期ナポレオン勢力にナポリ王国を奪われシチリアに逃げるも
ナポリ王国が戻るとナポリとシチリアの王位を統合して、ナポリを首都とする両シチリア王国を成立。
両シチリア王国フェルディナンド1世となった。


両シチリア王国とは、簡単に言えば、本当に簡単に言えば
ナポリ王国がシチリア王国領有してる感じでおk

シチリアの晩禱興味あったので追記でー



当時、シチリア王国はフランス王族であるアンジュー家のシャルル・ダンジューが支配。
イタリア系の住民と激しく対立。
そんな中、1282年3月30日に、アンジュー家の兵の一団がパレルモで
シチリア住民の女性に暴行したことに怒った住民が暴徒化。
あっという間に暴動はシチリア全土に拡大。
4000人ものフランス系の住民が虐殺された。
事件の発生した3月30日は復活祭の翌日に当たる月曜であり、
教会前には大勢の市民が晩禱(夕刻の祈り)を行うため集まっていた。
彼らが暴動を開始したとき、
晩禱を告げる鐘が鳴ったことから「シチリアの晩禱(晩鐘)」と称されるようになった。

実はこの事件、黒幕がいたとも言われる。
シチリア王は東ローマ帝国を征服しようとしていたが
東ローマ皇帝はアンジュー家による地中海支配を恐れるアラゴン王国、
イタリア海運都市国家と組み、厳しい軍事物資などの徴発を受けた
シチリア住民の反フランス感情を煽る工作活動をやった。
反乱でシチリアは失われシチリア王が準備していた遠征計画は見事に狂う。
これによって東ローマ皇帝は征服阻止に成功した…とか。

更に言うとこの事件によりアラゴン王国(スペイン)が
この地域の支配権を固める契機となった。


住民の合言葉
「Morte alla Francia Italia anela(フランスに死を、これはイタリアの叫びだ)」の
それぞれの単語の頭文字 M A F I A がマフィア(Mafia)の語源とか噂されちゃうぐらい
センセーショナルな事件だった。
ちなみに合言葉は文章的に不自然で後世の創作だとか。
イタリアの辞書にはシチリア方言「mafia:乱暴な態度」が語源って書かれてる。
PR
この記事にコメントする
color
name
subject
mail
url
comment
pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
無題 HOME イングランド国教会
photo by 七ツ森  /  material by 素材のかけら
忍者ブログ [PR]
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
名言
Powered by 英語名言集
ブログ内検索